嬉泉

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嬉泉の想

鼎談『課題を媒介とした交流』~心のケアとしての受容的交流療法~-02-

「心のケア」について

石井

今、「心のケア」というお話がありましたけど、「課題を媒介とした交流」と「心のケア」っていうのがなかなか結び付きにくいこともあるかなと思います。私どものような法人の中にいる人間にとっては割とその辺は、その課題の先にあるものというか、課題を通して相手に求めるものっていうのはその成長であったりとか、ある種の結果としての状態の変容であったりだからこそ「心のケア」だっていうふうに分かるんですけど、なかなかそこが新しく入った職員とか、外部の方なんかは、ストレートに結び付きにくいんじゃないかなというふうに思っていて。

阿部

「心のケア」という言葉は世の中でいろんな場でいろんな意味で使われているので、誤解されやすいと思うのです。ですから私は「心のケア」という言葉をこういう意味で使っていますお話しすることからでないと進まないかなと。そんなふうに誤解されやすい言葉を何で使い出したんだっていう、その辺の話もしなきゃならないんですけど。 もともと私は自分がやってきた理論的な根拠を「抱っこ法」という名称でやってきたので、ごく最近に至るまでずっと、「抱っこ法の阿部」っていうことで袖ケ浦に通ってきたところがあったわけですが、それはあまりいいことじゃないんじゃないかと思って。というのは、ある場での支援は、一つのまとまった理論に従ってやっていかなければならず、いろんな考え方がそこで寄せ集められると混乱の元になる気がして。 そんなことを思いながら、改めて「抱っこ法」と「受容的交流療法」とが、どう重なるんだということを考えてみたら、矛盾するところがないんです。自分がやってきたことは全て「受容的交流療法」によって説明されることだし、重点を置いて大事にするところの違いはあるわけですが、でもそういう違いも受容的交流療法の枠から外れるものじゃないと思って。 ですから、ここ数年はなるべく私は「抱っこ法」という言葉を使わないようにして、といっても私が「受容的交流療法をやります」というのもおこがましい話だと思って、その妥協というか、曖昧な表現として、「心のケア」を使ってきました。 もう一つ、矛盾するところはないと言いながらもここは違っていたなと思うところがあって。それは、石井哲夫先生は「自閉症の治療をするんだ」というところまで踏み込んで実践してこられたわけですが、私はそこまで言い出す勇気がちょっとなくて。 というのは、世の中の風潮がそういうことを言ってはいけないんじゃないか、という自己規制が働いて、ですから、自閉症のままで本来の素敵な姿を取り戻すんだと限定して実践してきたわけです。 そのことを一般的に言うと「心のケア」になるんじゃないかなと思ったのは、たまたま石井先生もメンタル・ケアという言葉を著書の中で使っていて、「障害児・者は皆、気持ちの問題を有しており、メンタル・ケアを求めている」とおっしゃっている。強度行動障害にしても、「自閉症だからパニックを起こすんじゃないんだ。自傷・他害が起きるわけじゃないんだ。それは二次的に本来の姿を見失っている状態なんだ」ということをおっしゃっているものですから。それならそれ(自閉症者が本来の姿を取り戻すために必要なメンタルケア)と同じ意味で「心のケア」という言葉を使ったらいいかなと思って、使い始めたようなところがあります。 それともう一つは、この方法論が健常な子どもで育て直しが必要とするようになった子どもの支援にも役立つ方法なものですから、それで(「療法」でなく)曖昧な「心のケア」という言葉を使い始めてきたんです。