嬉泉

Thinks
嬉泉の想

「受容的交流が表すもの」

東京大学 渡辺慶一郎教授(医学博士)

コミュニケーションの相互性が困難とされている自閉スペクトラム症ですが、その性質がある者達の成長可能性を石井哲夫は信じていました。

「我々のいう治療とは、もっと広く(医学の治療よりも広いという意味)、自然に放っておくと、家庭においても育たないというような障害をもつ子どもに、育てるための条件を整えるということである。」

「…だから我々は治療を行っていくうえで、人間というものはどのような困難な状況から出発しようと、発達していくものであるという考え方をもたなければならない。」(石井哲夫『受容による自閉症児教育の実際』(1983)学習研究社)

成長可能性とはすなわち人間関係や社会関係での成熟可能性と解釈できます。1996年の姫路ブロック20周年記念講演会では、

「(TEACCHや行動療法などとの視点の違いに言及して)基本的に人間として理解し、人間として自閉症を育てるということはどういうことかという、その検討をしなければならないと私は思うのです。」

「(“受入れる”について)ひとりの人間として、存在して生きていく、その人生をどう思うのですか。認めるのですか、認めないのですか、ということです」と述べています。

では、こうした成長は何によってもたらされるのでしょうか。批判を恐れずに言うと、例えば語彙数が増えたり日常生活動作が獲得されることは、ここでいう成長の本質ではない。パッチワークのように要素的な支援を組み合わせ、道具的な能力を向上させることが(それ自体を否定するものではありませんが)最終的な目標ではないでしょう。私は、人間関係や社会関係の中で、可能な範囲になりますが、主体的で相互的であることが目指されるのが良いと思っています。個々の要素的な支援や関わりは、これが土台にあってはじめて意味をなすでしょう。他者や社会とのかかわりの重要性を正々堂々と主張しているのが石井哲夫の受容的交流療法です。

受容的交流療法には成文化されたマニュアルはありません。例えて言うなら禅のようなもので、決まった方向に沿って学習すれば到達できる性質のものではないのです。端的に言えば、本人の特徴を十分理解し、また情緒的な面を受けとめ(受容)、その上で適切に関わること(交流)に尽きるのですが、個別性が高く即興性も求められるために体得するのは容易ではありません。数値的な目標が設定しにくいため、様々な工夫が行われてきました。泊りがけの合宿や、支援者を対象にしたサイコドラマもその一つでした。

嬉泉では、構成員の皆さまが受容的交流療法に重要な価値があるとして、継承や体系化に正面から向き合っておられます。巷に溢れる様々な技法とは異なり、その本質を分かりやすく表現し伝えてゆくのは容易な道ではないかもしれません。ただ、それだけに意義も大きいと確信しています。

皆さまの実践に受容的交流療法が内包されているだけでなく、それを意識して向かってゆかれる取り組みに敬意を表します。僭越ですが、今後の嬉泉の益々のご発展を祈念致します。