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対談「受容的交流が表すもの」を受けて-01-

石井

渡辺慶一郎先生にはいつも色々な嬉泉の事業にご協力いただいていると同時に、以前は評議員を務めていただきまして、現在はその評議員を選任する選任委員をお願いしています。

そのような関わりの中でいつも感じるのは、本当に私たちの実践に対する温かい眼差しと言いますか、嬉泉新聞第86号に寄稿してくださった原稿を読ませていただいて、本当に力づけられる言葉をいただいていると感じています。

現場の職員たちにとっても、私にとっても勇気づけられることなので、今日はそのことをもう少し掘り下げて、私たちが行っている受容的交流というものについて、好意的に見てくださっている渡辺先生から、ご理解いただいている内容を伺いたいと思い、このような対談という形式で機会を作らせていただきました。

原稿の中でも書いてらっしゃいますが、自閉症のような、コミュニケーション困難な方の成長可能性というものを信じているというというところを取り上げてくださっているわけなんですが、どういったところで受容的交流の良さ、みたいなものを感じていらっしゃるかというところを、まずお聞かせいただけますでしょうか?

渡辺

ありがとうございます。
僕は石井哲夫先生と直接お会いしたことは実はそんなにないんです。だから逆に印象的だったのかもしれないのですが、あるシンポジウムで、何人かの研究者の方が話していて、石井哲夫先生が司会をやられていたんです。

そのときの聴衆のひとりが野次といいますか、大きな声でワーッと話し始めたんです。それで皆「困った、どうしよう」という感じで顔を見合わせるような状況だったのですが、石井先生は「どうしたんだい?」みたいな感じで、落ち着いて対応されていたのです。

そのおかげで、険悪な雰囲気にならずに、なんともうまく収まったのです。むしろその方も少し主張出来てトーンが柔らかくなったのです。

もし自分が司会で、そのような批判的な発言を受けたら、とても話を聞いたりとか、良いメッセージをその場で発するというようなことはできなかったなと思います。それで、「現場力というか臨床の力が本当に凄いのだな」と改めて思ったんです。

また、精神科専門誌に投稿された論文で、成人発達障害の方のケースで石井先生がサイコドラマを行ったエピソードに触れたことがあります。非常にグッとくる内容で、硬い自閉スペクトラム症の方ではあるけれど、お互いを思いやることが出来て相互の会話が成立したというものでした。

70~80年代に症例報告という形で残っているものも拝読すると、その方々の社会性やコミュニケーション能力の成長可能性というか、実際に成長・成熟している様子が読み取れるのです。

日々、発達障害の子どもや成人の療育支援を行っている方たちにとっては、そのような成長を感じることは日常的なことなのかもしれないのですが、私たち精神科医にとっては、診察室で短時間しか会わないですから「今,まさに成長したな」という感じはあまり無いのです。それゆえに私が「受容的交流ってすごいな」と憧れのような状態になっているのかもしれません。

ただ,それにしても、困難を抱える領域の成長が実際に起こっていて、そういうことを仕掛ける人がいるんだと思ったら、自分にとっても当事者とのかかわりにおいて、まだ出来ることや、やるべきことがあるなと感じるのです。

それで興味を持って調べていく中で、インターネットで世界自閉症啓発デーのシンポジウムで石井哲夫先生が話している動画がありまして。その中で「適切に受けとめて理解し、その上で適切にかかわる」ということを言われておりました。ああ、これが受容的交流のことなのかなと感じたのです。

「理解」というのは知的な理解であって、一般的に言われている特性をこの人も持っているのだという了解であり、「受け止め」というのは多分情緒的なもので「大変だったんだね、苦しかったんだね」という共感かと考えました。

こうした理解と共感を前提として、適切に働きかけることが大切なのだと感じています。現場の人にとっては多分、珍しくもない、いわば普通のことなのかもしれないですが、だからこそ大事なのだとも言えるかと思います。

受容的交流療法の流れの一方で、SST(ソーシャルスキルトレーニング)や認知行動療法、応用行動分析などの行動面から変えてゆく手法が開発されてきました。

行動は取り扱い易いので短期的に変えることもできる。例えば喧嘩をしてしまう子に、それをしないようにする行動上の介入テクニックは色々あるでしょう。

でも、それ(喧嘩しないこと)ができるようになってよかったね、じゃあ次は何しましょうか?(今度は暴言を止めさせましょう等)というパッチワークのような繰り返しでいいのかなと思うのです。

多分、人と関わる上での基本的な領域が、成長・成熟するのが本質であって、そこを取り扱わないことには、逆に行動面の介入テクニックも成り立たないと思うんです。

しかし、これこそが大事なんだと真正面から言うのは勇気がいることです。簡単に変化する領域でもないですし。(受容的交流療法では、これこそが大切なのだと主張していると思いますので)そうしたところに私は惚れ込んでいるのです。

自分の子どもの幼稚園を探すときに「英会話やってます」「スイミングやってます」とか、そういうおまけみたいなものを大きく謳っている幼稚園がいくつもあったのですが、もっと子どもと向き合うこと、子どもだけでなく親も成長しなければならないこと、手間はかかるし面倒くさいところはあるけれど、それが大事なのだと主張しているところを探しました。

私の地元がここ(子どもの生活研究所)からは遠いので、大切なことに向き合う(受容的交流療法的な)ところを探して入園させました。ちょっと話がそれてしまったのですが、そんな風に惚れ込んでいるということなのです。

石井

ありがとうございます。今のお話の中にありました「適切に理解して、適切に受け止め、適切にかかわる」というのは、確かに受容的交流の、ある意味神髄と言えると思います。言葉にすると本当に平易で、当たり前といえば当たり前に聞こえるような言葉なんですけど。

やはり自閉症の方を我々支援者が理解するのが難しかったり、当事者ご本人も人とかかわるのが苦手だったり、そういう方に対して、きちんとそれを行うというのは本当に大変だということを渡辺先生はよくお分かりになっているからこそ、おっしゃっていただいているのだと思います。