嬉泉

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嬉泉の想

対談「受容的交流が表すもの」を受けて-02-

石井

我々が自分たちの実践を語ろうとするときに、まさにそのことがあまりにも当たり前に聞こえるがゆえに、伝えるのが難しいと言いますか。そこには石井哲夫もかなり力を注いでいましたが、「理解する、受け止める、働きかけかかわる」というところを言葉にして説明するというより、自ら実践してみせていたのだと思います。

現場の中でも実際に、職員同士の関係の中で、先輩とか上位者がやっていることを後輩職員が見て、それを自分なりに真似るところから始めたり、あるいは違うアプローチをしたりと、試行錯誤していくものです。

それが本当に利用者に届いたのかどうか、ということを確かめるのも、利用者本人の変化はもちろん、先輩や上位者との話の中で、「理解するってこういうことか」「受け止めるってこういうことか」と、より深いところでつかんでいくことの積み重ねで、ようやく職員自身の手応えになってくるものなのだと思うのです。

ただ、それを新人職員に伝えていくのは、本当に時間も手間もかかりますし、実際にそれをものにしてくれるかは、皆が皆というわけにはいかないところもあります。

先生のお話の中にもありましたが、ASD(自閉スペクトラム症)支援というか、強度行動障害支援者養成研修を行う中で、応用行動分析とか構造化といったものが取り入れられ、それらがスタンダードな手法とされてきています。

決してそれを否定するものではないのですが、それだけでは足りないんじゃないか、むしろ、もっと土台になるものが必要なんじゃないか、ということを言おうとするときに、なかなか適切な言葉にできないのが非常にもどかしいと言いますか。

そういった言葉で伝えていくためにどうすればよいか、何か先生にお知恵を貸していただければと思うのですが。

渡辺

例えば、支援者への助言として、お互いの信頼関係が大切だとか、その当事者のことを理解して、受け止めること、とか言うと「もう信頼関係は出来てます」というように返されてしまうことが多いのです。

しかし、石井理事長がおっしゃった通り「あ、そうだったんだ」と感じられる領域まで踏み込んだりとか、利用者とのかかわりの中で「あ、そういうことだったのか」と理解が深まったりすることがあると思うのです。

それまで「できていた」と思っていても、まだまだ不十分だった(まだ出来ることがあるのだ)ということが、そこで初めて分かる。それを言葉にして伝えるのは、なかなか難しいことだと思います。

受容的交流では、いわゆるマニュアルのようなものは作ってないですよね。例えばチェック項目があって、これができたら上級者とか、今風のプロトコルになっていないというのはつまり、言葉にすると何かが損なわれるから、ということもあるのかなとも思います。

言葉にして物事を区切って「ここからここまで」と表現してしまえば初心者にもわかりやすいのでしょうが、それでは味気ないもの(本質が抜け落ちたもの)になってしまう。

だから言葉のマニュアルにはなっていないし、むしろしなくて良かったのではないかと思うこともあるのです。実践の中で人から人へ直接伝えていくしかないのではないかと、私は今のところ思っています。

しかし一方で、言葉にして伝えていく努力は必要で、(受容的交流をベースとした)こういった切り口もあります、こういう解釈もあります、ということを発信していくのだと思いますが、それは「人間とはなんぞや」みたいな問いと同じで、100%のゴールはないのかもしれません。

嬉泉が大事にしていることが、必ずしも家族や関係者が求めているものと一致するとは限らない場合もあるのではないでしょうか。

例えば発達障害のお子さんのケースで、言葉ができて、着席していられる、小学校も普通級に行けるようにして欲しい、とにかく行儀よくできるようにして欲しいといった要望は(それ自体は自然な求めだとは思いますが)、受容的交流療法が目指すものとはちょっとズレてしまう。

だから、そういったニーズに対して、自分たちがどういう人間形成を目指しているのか、ご家族や関係者に理解していただけるようすり合わせていくのは大事だと思います。

そして、受容的交流がひとつのキーワードになって、それが軸としてあって、支援者が「これは大事だよね」ということを認識すると、支援者自身が普段の生活もちょっと見直すというか、仕事の場だけではなく、自分の在り方というか。本当に自分が主体的か、ほかの人を理解して受け止めているか、そういうことを振り返らざるを得なくなると思います。

石井哲夫先生は職員の研修にも力を入れていらっしゃったと思うのですが、サイコドラマは職員向けにもやっておられましたよね。支援者が主体的でないと、利用者も主体的になれない。そうなると仕事中に全て完結できるものではなくて。なかなか今風にはいかず、勤務時間外に集まって話し合うとか、そういうことが必要だったのではないかなと。

何というか、思想というところまで踏み込むと批判も出てくるのかもしれないのですが、人と関わることは、やはりこちらも片手間ではできないというか。しかも、小さい子どもとか弱い立場の人が相手だから、余計にこちらが力を入れなければいけないことなので、やはり簡単には到達できない領域というのが真実かと思います。

ですから受容的交流を語るのもやはり簡単にはいかないのではないかと。勤務時間で区切れないのは、今の人には合わないのかもしれないのですが。

石井

私もお話を伺っていく中で、自分もそういう風に思っているところがありまして。

私自身はなかなか石井哲夫のようにはできないですが、ただ思い返してみると、石井哲夫のやっていたことは、もちろん一義的に利用者への支援なのですが、そこにやはり自分自身の生き方みたいなものが現れていたというか。

もう仕事だ、プライベートだというのを超えて、自分自身の暮らしの中に自閉症の人たちとの付き合いがある、みたいなイメージでしたね。そこにはもちろん、職員の人たちも入っていて。だから、先生がおっしゃるように仕事だ、プライベートだ、っていう区切りというより、本当に「人としてこう付き合っていく」という風で。

仕事が終わったらオフに切り替わって、ということでは全くなくて、生き方に入り込んでいるというか。石井哲夫は、そういうことでしかできなかったし、そういうことをむしろやりたかったのだろうなと、今更ながら思いますね。