嬉泉

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嬉泉の想

鼎談『課題を媒介とした交流』~心のケアとしての受容的交流療法~-03-

「自閉症」について

石井

今のお話の中で強度行動障害という言葉が出てきましたけど、確かに二次的な障害というか、すごく混乱していたり、非常に不快な状態に置かれていたり、そういうところでの反応というか、その人が表している状態としての強度行動障害への対応ということで、それをなだめるとかあるいは収めるとか、そういうようなことでご本人が例えば自傷とか他害とか危険を伴うような行動をしていたりとか、あるいは不潔行為であったりとか、そういう人に迷惑なことを行っている状態っていうのを改善するというか、それがある種、緩和されたり消失したりっていうことが割とゴールのように捉えられているのかなというふうに思うんですけども。

でも「心のケア」とか受容的交流が生み出すものっていうのはそれだけではないというか、むしろその先にあるもので、それこそ先ほど先生がおっしゃった「課題を媒介にした交流」っていうところにつながるお話なのかなというふうに思っているんですけれども。

そのあたり、自閉症という障害をどう捉えるかっていう「自閉症観」みたいなものにもすごく関わっているというふうに思っていて、先生が研修のために書いてくださったテキストには自閉症の歴史というか、どのように考えられてきたかっていう経緯も書いてくださっています。

最初は心因説だったのが器質説になって、今は認知的な機能の障害みたいなことが割と中心になっているというか、それが主流の捉え方になっていて。だからある種のそういう器質的な問題だとすると、自閉症っていう障害自体はもう固定的であまり変容していかないんじゃないかっていうような。だから強度行動障害は別として、自閉症として示されていると思われているいろんな特性みたいなものっていうのは、もうそれ自体は動かしようがないから、それを周りも受け入れて、それに合わせて環境調整をすることが支援なんだ、みたいな、そういう流れになってきている気がするんです。

でも今「心のケア」っておっしゃっている課題的な交流っていうところは受容的交流の求めているところでもあるわけなんですけど、それはそういう固定的なものではないっていうところに依拠しているというふうに私は捉えているんですけれども、そのあたりを少しお話しいただけませんでしょうか。

阿部

心因説から器質説へという移り変わりがあったのが1960年代、70年代だと思うんですが、今おっしゃったように「病気じゃなくてそれは障害なんだから、自閉症のままであるがまま生きていけばいんだ」という、そのこと自体はとてもまっとうな考え方で、何も否定するものじゃないんです。

けれども、だからといって自閉症という状態が改善に向かわないのかというとまた話がちょっと別になる。別になるはずなんだけれども、「いや、器質説なんだからそれは無理なんだよ」という考え方が広まっていたと思うんです。

そういう流れであるのを承知の上であえて自閉症を治療するということに堂々と取り組んできたことで、石井哲夫先生には感服するというか脱帽する他はないんですが、ただそれが時代を経てごく最近になると、ちょっと世の中の考え方が変わってきている。そのことを私が直に思ったのは、『自閉症革命』(ハーバート/ワイントローブ著)という本が翻訳されて、それをたまたま手にしたことがきっかけなんですけれど。

その本を読むと、器質説という場合に、私がそれまで受け取っていたのは脳のどこかに病巣があって、それが自閉症の原因になるということだったんですけれども、どうも最近の研究からするとそういうことではないようです。脳の中の色々な問題があるかもしれないし、脳の外というか、全身的な色々な問題が関わっているかもしれないし、そういう(体内の)ネットワークの中でそれぞれの問題点が手に負えないというか、訳書では「負荷」という言葉が使われていたと思うんですが、その負荷がある限界を超えてしまうと自閉症という状態が生まれるんだという説明で、ああ、なるほどと思ったのが一つ。

ですから、いろんな問題の中の幾つかが改善すると自閉症という状態も改善するという実例がいろいろ報告されている中で、人との関わりを改善する社会性プログラムが今結構いろいろ出ているんだなということがその本を通して改めて分かったところで、世の中が石井哲夫先生にようやく追い付いてきたなっていう心強い思いがしたんです。

その社会性プログラムの一つにRDIというのがありまして。対人関係発達指導法(Relationship Development Intervention)を略してRDIです。

杉山登志郎先生という児童精神科のドクターがその翻訳を監修して、解説を書いています。自閉症や広汎性発達障害の中心は社会性の障害である。この社会性とはいわゆる社会生活という面の社会性じゃなくて、発達の一番基本にある「人との関わり」という意味での社会性です。「その克服のためには自閉症の認知障害を突破しなくてはならないが、その自閉症の認知障害を十分に考慮し、その認知障害によってもたらされた社会性の障害のレベルを見極め…」というあたりは従来の認知障害説をあからさまに否定しないように気を遣っての表現だと思うのですが、そう前置きした上で「社会性そのものを治療の対象としたプログラムは不思議なことにこれまでつくられてこなかった」と書いておられるんです。杉山先生、受容的交流療法をご存じないはずはないと思うのですが。

石井

対人関係、人間関係っていうことをずっと石井が言ってきて。そこに対するアプローチをしてきたわけですよね。それがまさに社会性の発達プログラムに他ならないという。

阿部

そうです。

沼倉

これは自閉症の本質的な部分より、生活の様子とか目に見えるところ、そういう二次的な表層を改善するということに結構注力している療法とか、学校教育とか、そういう現状があって、そういう中でやはり本質的な自閉症の方の健全な部分とか、そういうところが見逃されやすかったっていうことも関係しているんですかね。

阿部

ただ、人との関わりそのものを治療の対象としたプログラムが出てきていることは紛れもない事実なので、このように解説なさっていることはとても心強い、という思いでこの解説を読ませていただきました。というか、それ以上に時代がいよいよ石井哲夫先生に追い付いてきたな、と喜ばしい思いをしました。

石井

ただ、なかなかまだそれが(広まっていかない)。