嬉泉

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嬉泉の想

(1)受容的交流の出発点

社会福祉法人嬉泉 理事 沼倉実

嬉泉の療育は、受容的交流の考え方に基づいて行われている。受容的交流の考えとはどういうものなのか、一体なにをするのか、よくわからないと云われこともある。また、嬉泉の支援員でも説明ができるかというと、そんなことはなく、説明をしたとしても、漠然としてわかりにくかったり、人によってまちまちのことを説明したりで何とも実態がつかみにくいものであるかもしれない。しかしながら、ほとんどの嬉泉の支援員は受容的交流の考えに基づいて支援をしていると考えているであろうし、拠りどころにしているものであるといえる。

外側からは受容的交流の考えについて、まちまちな評価がされている。ある人は個人の名人芸だと評し、またある人はエビデンスのない考え方であると評す。まったく理解できないという人もいれば、考え方を見聞きして目からうろこが落ちたという人もいる。

このように、いろいろな人がいろいろにとらえ、何ともつかみどころがないところがあるのが、特徴の一つといえるのは確かなようである。また、この考え方を基にした事業を社会福祉法人嬉泉が 50 年に亘って数多くの職員の手に受け渡し、数え上げれば 30 以上の事業を運営してきていることも事実として確かなことである。

まずは、このとらえどころがないようにも思える受容的交流の考えというものを少し分析してみる。

受容的交流を考える糸口として、その考えの創設者である石井哲夫(故人、前常務理事)の言葉を以下に引用する。


「受容とは、全てを受け入れることから出発していますが、相手の態度や行動を全て容認することではありません。利用者の表面的な態度や行動の形だけに目を奪われると、困ったものとして排除しようとしたり、望ましくないと考えて否定してしまうことになりがちです。

表面的な形にとらわれず、その奥にあるその利用者の精神的な働き、境地を推し量り、わかろうとすることが大切です。これが受容の第一歩です。その際、私たち自身の中に、普段は意識していなくても、感覚が鋭敏になっている場合や、精神的にノーマルでないような状態のとき(例えば、過度に緊張したり、不安になったとき)の自分の振る舞いなどを思い起こしてみることによって、混乱している利用者や保護者との共感が可能になるし、相手のココロのすじみちが追えてくるということがあります。そして、こちらが働きかけた時の相手の反応として、戸惑ったり、葛藤している相手の人間性を強く感じ、自分と同じ人間としての相手への親しみや可愛らしさを感じる、という感情が湧いてくるものです。

このように、全ての利用者や保護者とのかかわりあいを深めて、その発達や生活の援助をすることによって、その利用者や保護者は、周囲の人に自分の本心からかかわりをつくり、自我の働きを育てていくことになります。この過程が受容的交流なのです。


一般向けの平易な文章なので、どこまで説明し切れているのかは定かではないが、論文などとは違った形で石井哲夫の文章の中では、最も簡潔にまとめているものである。要旨を取り出すと、

  • 全てを受け入れることから出発
  • 相手の態度や行動を全て容認することではない
  • 表面的な形にとらわれずわかろうとする
  • 利用者や保護者との共感
  • 相手への親しみや可愛らしさを感じる
  • かかわりあいを深めて援助する
  • 自分の本心からかかわりをつくり
  • 自我の働きを育てていく

最後に、「この過程が~」とあるが、これらを包括したところで本人も支援者も変化・成長していくことを受容的交流であると結んでいる。説明するにしても、批判するにしても、どこかの一部をとらえて、よいだとか、悪いだとか、こうする、ああするということになると、説明が足りなかったり、解りにくかったり、とらえどころがない等ということになってしまうのだろう。

しかしながら、この抜き出した文章を見るとますます観念的で、エビデンスはどこにあるのだと懐疑的になることも理解できるような気がする。しかし、最後の「この過程が受容的交流」の部分を、石井のもう一方で力を注いで取り組んでいた〝保育″の視点から「この過程が子どもを育てること」に置き換えてみると、人が営々と続けてきた「母親の赤ちゃんを育てる姿」が見えてくると思う。本能と感覚のままに泣き、笑う赤ちゃんを人として育てていく母親の姿である。また、子育てを通して親になっていく姿でもある。

受容的交流の源流は、母親の子育ての心であり、子育ての核心は母親の愛であるといっている。石井のそれ以前の研究として、積極的養護理論(1963)がある。いわゆる施設支援のホスピタリズムに挑戦した考え方であるが、そのような意欲をもって自閉症の子どもに対しても、育て方や愛情のかけ方を専門性として自分達にも確立できるという思いが、研究を進める原動力としてあったのではないかと思われる。母親の代わりとなり、またそれ以上の養育・療育を自閉症の子どもにしていきたいという、人間愛に根差した関わりが原点に存在する。

石井は、自閉症の子どもに出会ったときに、これまで経験をしたことがない不思議さに興味を持ち、取りつかれた。取りつく島がないように見える子どもに、何とかかかわりを持つために試行錯誤したという。今までのやり方が全く通用せず、反対に状態を悪くしていく経験は、新人支援員の時に多くのものが経験するところであるが、石井にしても自閉症に初めて出会った時には同様のことを経験したのであろう。試行錯誤の末に、まずは、いろいろなことは取っ払って、彼らととことん付き合ってみようというところから始まっている。

母親が泣く赤子の口をふさがず、あやし、話しかけながら、これまでの経験とあわせて子に関わっていくように、水遊びに集中している、紐を振る、人を寄せ付けない等のその行為自体が非常に解り難いことが多くある自閉症の子どもに共感的に関わることは意義のあることであり、その共感からはじまる姿勢が出発点であるといっている。いわれてみれば至極当然のことであると感じられるのだが、日常的な観念に縛られた観点でしか物事を見られなくなっていると、人は当然のごとく〝赤子の口をふさぐ″ことと同様のことを自閉症児の行為に対してしてしまう。しかしながら、石井は行為を受け入れとことん付き合う中で、自閉症の理解には、表面的な形にとらわれずに理解することが大切であるということに実践的にたどり着いたのである。

いささか観念的な出発点の内容であるが、別の云い方をすると、人にはそれぞれの感覚や考え方があり、それが自分や一般社会とずれている場合もあるということを認めることが大切であるということである。そんなことは簡単で今更云うまでもないと思うのであるが、こと自閉症の人に関わると非常に難しいことになるのは周知の通りである。不安を表現する泣きじゃくりは理解できても、不安な時にする精神安定のための水遊びへの没頭は理解しがたいように、人は自分の中にない感覚は理解でき難いからである。

自閉症の内的世界は、今でこそたくさんの当事者発言があり、驚くべき彼らの生きにくさが知られるところとなった。そんな今日でさえ、いまだに誤解や偏見は満ちており、社会的な障壁は随所に高く存在する。それは、彼らの感覚が非常に個別的であることと、様々な形をとって表出されることでわかりにくくなっていることに起因する。

療育の始まりは、彼らの内的世界の理解から始まる。「受容」は、知らないことがたくさんあって、それらを知ること、解明すること、共感するという姿勢が支援者の側にあるのかということであり、支援者が不完全な自己を受容することでもある。