嬉泉

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嬉泉の想

対談「受容的交流が表すもの」を受けて-03-

石井

私自身がそこまでできるか、と言うと、なかなか難しいところもあるんですが、やはりオンオフでスイッチが切り替わるようにという風には、自分もなかなかできないなあと。

若いころは割と仕事は仕事、自分自身の暮らしは暮らし、でやれるといいなと思っていた時期もあるんですけど。でも結局、仕事から帰っても仕事のことは考えるし、仕事で受けた色々な影響っていうのは残っているし。

先生もおっしゃっていましたが、自分自身の生き方?というと大げさですが、身の処し方みたいなところは、本当に問われているなと。

自分が本当に思っているわけではないことを相手に求めることは不自然なことで、真実味や説得力がないから伝わらないし、当然相手も変わっていかない。だから、そこで自分自身を変えていくことが求められるというか、必要なんだろうなと思います。

でも、受容的交流を実践していくためにはそういうことが必要だって、表立って言ったら、多分相当数の職員は「そんなのできないよ」ってなるだろうと。

結果的にはそれに近いような生き方になっている人は少なからずいると思うのですが、それを人に言われて、その方向に進んでいこうとする人はなかなかいないのではないかと。

実際に、利用者と向き合いながら、自然に自分が影響されるというか、必要に駆られて変わっていかざるを得ない、みたいなことを経験していくと、自然と変わっていくというか、掴んでいくものなのだと思います。

渡辺

いや本当に、その通りだと思います。私も自分の職場では休みの日に仕事をする(させる)のはいけないことなんで、言えないんですけど。

でも、石井理事長もどこかで書かれていることで、仕事だけ切り出して人を雇うのではなく、育てていくこと込みで来てもらうんだ、というふうに説明されていたと思います。

仕事だけ切り出してやってもらって完結する領域もあるとは思いますが、育つとか、成長するというと、仕事以外の、業務の成績とかではカウントしようがない領域だと思うのです。

例えば、医療の領域だと、国の方針で診療報酬がこのように変わったから、病院の方針も報酬が上がった領域に力を入れて、儲からない仕事は切ります、とか。そういうやり方もあるとは思うのですが、それだけじゃなくて、人格というと言いすぎなんですけど、人としての矜持というか。

トップの方がそれを大事だと思っている、ということが大事だと思います。

石井

ありがとうございます。そうですね、突き詰めていくと、なんか今の世の流れとはどうしても合わないというか、ある意味反するところが出てきてしまうところがどうしてもあって、それを大っぴらに公言するのは憚られるところもあってモヤモヤするのですが。

改めて先生とお話していて感じたのは、変えてゆくといっても変わるものでもないというか、さっきのマニュアルの話もそうですが、言い切ってしまうとそこで変質してしまうというか、本質を外してしまうみたいなところがあったり、あるいはその、やり方というか、大事なところを変えて、今風の時流に合うような形にしてしまうと失われるものっていうのが、大きいんだろうなと思います。

ある意味これで良かったんだ、ということをおっしゃっていただけたのは嬉しい反面、「さて、どうしよう」というところも残ってしまうのですが。