対談「受容的交流が表すもの」を受けて-04-
石井
幹部職員の間では今先生とお話しているようなことを話したりもします。でもそれは広がっていきにくい考え方、やり方かもしれない。それは外向けにもそうだし、内部に対しても、世代で区切りたくはないのですが、新しく職員になってくれた人たちに、なかなか伝えようとしても伝えにくいというか。
そもそも仕事とかその暮らしの中での身の処し方っていうのは、本当に違ってきているというギャップはすごく感じるところもあるので、やはり課題は残るなと。
それでも、ある意味、先生の立場のようなお立場の方からそうおっしゃっていただけたというのは「あ、やっぱりそうなんだ」という納得感はありますし、じゃあそれを前提としてどうしていこうというふうな思い切りもできそうだな、と思ったのは、やはり内部の人間だけで言っていても、しょせん身内の遠吠えみたいな感じになっちゃうところもあるので。
そういう意味では、違う立場から言っていただけるのはすごく意味があって、ありがたいことだと思います。ありがとうございます。
渡辺
人とかかわることが大事なんだよ、とか言い始めると「何言ってんの?そんなの当たり前でしょう?具体的にどうするの?」って批判されますね。
大学の現場では合理的配慮が一時盛り上がって、今度は障害者差別解消法が改正されて、私立大学も義務化されるのでまたトピックとして盛り上がってます。
障害や病気の人への配慮を法律で決めるっていうパラダイムシフトがあったわけで、それまでは親切心でお手伝いしましょう、ということだったのが「法律違反になるからやらなきゃ」ということになって、そのためには色々な委員会を作りなさいとか綱領とかルールを作りなさいとか、大学の中でそういう流れになっているわけです。
そうすると、その制度を実現するために「様々な支援室が」できたりして、その枠組みができることで、障害者や病気がある人はその支援室にまかせよう、みたいな。気持ちの上で分断というか、離れて行ってしまう、それは自分のテリトリーの問題じゃない、というようなことが起こりうるのではないかと心配しています。
だから、基本的なことだけど「適切に理解して、受け止めて、いいタイミングで適切に働きかける」って、本当にシンプルまことだけど、繰り返し発言してもいいのではないかと思います。
石井
今の自閉症とか強度行動障害のある人の支援はわかりやすいところに流れようとしている気がしています。
そのことに限ったことではないのですが、石井哲夫がかつて批判された言葉の中に「(石井の療育手法は)名人芸」というのがありました。石井だからできるけど、他の人にはできないじゃないかと。そういう批判がすごくありました。
渡辺
僕は反対に「名人芸」上等だと思うんですよね。精神科の領域でも神田橋條治先生とか名人がおられまして、異なる漢方薬を左右の手に出して、どちらが良いかわかるとか。そういうやり方は多分、ほかの人は殆ど真似ができないんですけど、そういう頂点があり得る、いろいろな可能性があるということを僕らが知るだけでも意味があると思います。
その名人を否定すると、もうDSM(精神疾患の診断・統計マニュアル)みたいな操作的判断基準で「眠れますか?食べてますか?気分はどうです?」と何項目以上チェックしたらうつ病、それで思考停止になってしまう。
誰でもできるから、評価者間の差を少なくする意味はあるのですが、難しいケースでなかなか治療が展開しない場合は手詰まりになってしまうんです。
だから名人芸はあった方が良いし、ほかの人にはできないから普及する価値は無いというのは、私は受け入れがたいですね。できなくても近づくことはできると思いますし。まあでも僕はこっち側の人間なんで、ちょっと遠吠え的な感じもありますけど。
石井
私も本当にそう思います。批判した人の立場はわかりませんけど、まあ想像するに、強度行動障害支援者養成研修なんかの作り方を見ていると、ある程度底上げをしていくというか、その研修を受けた人に応じて加算の根拠にするとか、そういった仕組みなので(誰でもできることが)必要なんだろうと。
でもその、汎化というところでは受容的交流はどうしても異端というか、傍流になってしまっているところもあって、ある意味それは致し方ないところもあると思うのですけど。