嬉泉

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嬉泉の想

対談「受容的交流が表すもの」を受けて-06-

石井

思い返すと石井哲夫も、行動の変容とか表面的な気持ちが変わるだけのところで終わってしまうことになりがちだというようなことをよく言っていたような気がします。

構造化とかも否定しないし、いろんなアプローチがあって良いのですが、そこで終わってしまうのではなく、その人が主体性を持てるのか?というのが到達点であって、ややもするとそこに目が向かなくなる恐れがあるから土台が先だ、という言い方をしていましたね。

渡辺

そうなんです、本当に。
子どもの精神科臨床で、「学校で着席できない」という困りごとに対していろいろ助言したり、薬を処方したりして着席できるようになったというケースがありました。

それで本人は褒められて嬉しいとか、教室に居場所ができて良かったというメリットはあるのですが、何というか…不満げな顔をして「この薬飲むと、なんかちょっと変な感じ(いつもの自分ではない)」と。表面の行動は抑えたけど、なんかちょっと違う。生き生きと、主体的に、のびのびと、というような時間の過ごし方が損なわれてしまっている。

でも、そういうことをちゃんと考えなければならないのは受容的交流のキーワードを出すまでもなく、本当はやらなければならないんですけど。

少し脱線しますが、私もサイコドラマの研修を何度か受けたことがありまして。それは石井哲夫先生の受容的交流の本にたびたび出てくるから興味を持ったんですが。

自分が主役になって、2回ほど小さいドラマをやらせてもらったんです。そうしたらもう、本当に強い影響があって。体を揺らされたら涙がこぼれるんじゃないかという感じになったんですね。

そのドラマの内容は自分の生い立ちとか、そういうのは全然関係なくて、日常の些細なことがテーマだったんですが。(サイコドラマの中で)うまい言葉で何かを言われたわけでもなく、ただこう、ダイレクトに突き刺さる感じがしたんです。

石井哲夫先生の著書の中でも、受容的交流の手法としてモレノのサイコドラマや、あと遊戯療法がベースになっていると書かれていたと思うのですが、著書の事例に出てくる人たちの体験とか、そこにかかわった支援者の人たちも、その時こう、ぐっと突き刺さるとまでは言いませんが、何かが変わったのだと思うんですよね。

石井

そうですね。具体的、直接的にその人の生活の中でかかわるというより、それらを一旦脇に置いて、サイコドラマの中の人物になるのですが、その時にどうしてもそこに投影されるものがあって。

直接的にその人の行動とか、関係性そのものに触れるのではないけれど、間接的になることで、逆に迫ってくるものがあるのではないかと思います。私自身がそこまで行った体験はないですが。

渡辺

分かっていただいてありがとうございます。
サイコドラマの研修に行った、とか同僚に言うと「えー?」みたいな反応なんですよね…。

石井

今の話と直接つながるかわかりませんが、利用者の方に何かを伝えようとするときに直接、面と向かってだと、非常に構えられて緊張が強くなったり、拒否されてしまったりになりがちなこともあるのですが、その人が聞いている場で別の人、例えば家族の方とかに、一見その人のことじゃないことを話す中で、その人の行動の改めてもらいたいところなどに触れたりすると、すごくそのことと本人が感じてくれて、自分から改めてくれたという経験がありました。それに近い感じなのかと。

渡辺

ああ、今「オープンダイアログ」という概念を連想しました。私もちゃんと実践しているわけではないのですが。

例えば引きこもっている人がいて、支援者が複数、心理の先生とか担当医とかケースワーカーがやり取りすることがあるんですが、本人の前で支援者同士がミニカンファレンスみたいなことをその場で行うことがあるらしいです。

本来なら本人がいない場所で行うことですが、自分たちの解釈を目の前で話して聞かせるという。オープンに話をして、考えを共有するというか、無理やり決められたゴールを求めるのではなくて、いろいろな意見、解釈があり得てそれで良いのだというメッセージかと思っています。

直接本人と一対一で行う精神療法ではない手法が今、注目されているし、私自身も導入したいと考えています。

石井

そういう手法が実際にあるんですね。

渡辺

はい。それで今、私も同僚と複数で相談者に会うようにして、時々自分たちもそれをやってみているのですが、一対一でやるより良いですね。ダイレクトに正論をぶつけるんじゃなくて、いろんな解釈があるし、正解は唯一じゃない、だから僕たちも迷ってるんだとか、そいういうことをオープンにすると、かえって本人の気持ちも動きやすいかもしれないですね。

石井

ありがとうございます。ちょっと学んでみたいなと思いました。

渡辺

あとそうですね、受容的交流がなかなか評価されないという問題点というか、課題について。つまり、(SST、CBTなど)様々なテクニックは普及したけれど、それらは当事者の気持ちの面ではまだ成熟したものではなく、だからその後トラブルが起こっていると。

そういうことを例えば国や、東京都に発信していくという視点はあるのではないかと思います。評価してもらえない、ではなく、こういう問題点があるから(そこにアプローチできる受容的交流を)提案するという道はあるのではないでしょうか。すぐには動かないと思いますけど。

受容的交流の宣伝というより、多分、このやり方を突き詰めていくと、もっとできることはいっぱいあるはずだし。療育においてマニュアル通りにやっても全然変わらないんだけど、受容的交流の観点からすればそれは当然の状態だったりする、ということを、国や都に発信していくルートはあるのではないかなと思いました。

石井

ありがとうございます。
そのあたりも言葉の選び方とかもありますけど、またご相談させていただきながらやりたいなと思いました。ありがとうございます。

渡辺

ありがとうございます。