嬉泉

Thinks
嬉泉の想

子育てアイウエオ

社会福祉法人嬉泉が発行していた機関誌「子宝通信」に2011年6月から2014年8月にかけて連載されていた、石井哲夫により愛情あふれるエッセイです。
お楽しみください。

ア 愛情を考える

『子ども』ってうるさいし、分からず屋だし、自分勝手なのになぜかわいいのか。

 

大人から見れば『まだ幼いから仕方ない』と許す気持ちが働くのだ。

 

良い親の姿を見ると、これはものすごい。自分ですることはキチンとしているし、その上、忙しく気が立っているのに、子どもには仕方がないと受け入れている。本当にすばらしい人間の良さだと思ってしまう。『自分もこういう時があったのか』と不思議に思ってしまう。

 

でも、泣いている子どもを見ると、傍にいる大人に『何で泣かせてしまうのか』そんなに大人の言い分を譲らずにいることが本当に『子どもが育つうえで良いこと』と思っているのか、等と、今度は親を責めてしまう。

 

事情も分からないのに親を責めるなどは分別のないこと。子どもは、どんな親でもその傍で育つものだ。虐待やネグレクトさえなければ、親権を尊重しなければならない。

 

少しぐらい泣いたって、子どもは、それが社会の掟なんだと親に従わせることが今の常識だ。親は、子どもにとって神様のようで少しばかり法律や社会の常識を意識すれば、我が子をどのようにもすることが出来るのだ。

 

何も人並みに道具がそろわず、台所の流しを湯船にしても、トイレを道具入れに兼用しても、人に見せなければ、「うちは貧乏だから」と言うことで済むし、でも、又あまり目立たないように意地悪をしても、どんなに汚くなったことでも自分でさせて『しつけは必要』と澄ましてしまう人もいると聞いた。これは親とはいえないが、『愛情があるから』という一言で許されてしまう。

 

親って、本当に子どもに対して愛情を持っているのだろうか。私の子ども達はいずれも40を超えている。この間、私が子どもが可愛くてたまらないと思った期間はせいぜい中学生までであった。その後の彼、彼女の生活についてはほぼ無干渉であったと思う。

 

それが未だに幼い時の感覚を呼び戻すことがあるので驚いてしまう。夢中で可愛がって、『盲目の父性愛』と自称してはばからなかったことが懐かしい。その頃の子どもは誠に可愛かった。子どもは無条件で可愛かった。しかし家内はそうはいかなかったようである。それでも彼女は、子どもをがみがみ叱るようなこともなく誠に平和であった。

 

子どもへの愛情は家庭の平和をもたらすと言うことで、可愛がられた子どもは甘やかされたことになるとは近視眼的発想で、家庭の平和こそ良い子育ての必要条件で、それは子どもをめぐって愛情が大きく作用するからである。

『子宝通信』創刊号(2011年6月1日発行)掲載

『子ども』ってうるさいし、分からず屋だし、自分勝手なのになぜかわいいのか。大人から見れば『まだ幼いから仕方ない』と許す気持ちが働くのだ。良い親の姿を見ると、これはものすごい。自分ですることはキチンとしているし、その上、忙しく気が立っているのに、子どもには仕方がないと受け入れている。本当にすばらしい人間の良さだと思ってしまう。『自分もこういう時があったのか』と不思議に思ってしまう。

イ 生きる力を考える

わたしは、子どもを見て、その心の中を考えることが癖になってしまった。だから泣いている子を見ても『どんな言い分があるのかな』とか『どれだけ頑張るのかな』とか『気が変わるときはどんな時かな』などと考えてしまう。そして嫌なことが沢山あっても、『強く生き抜いて欲しい。』と思うようになってきた。

 

私の見るテレビの画面に、発展途上国で、働く子どもの映像が出てくる。大人と違って、小さな身体を精一杯使って水をくんだり、薪拾いをしたりしている子ども達を見ると、可哀想になってしまうが、気を変えて見直すと、この子ども達の『生きる力のたくましさ』に打たれるのである。

 

家で、くつろいでいる孫達を見慣れていると、孫たちの生きる力の育ちが心配になってくる。以前、文部科学省から『生きる力を育てる』というスローガンが出された時、まことにいい言葉だと共感したが、そのためにどうしたらよいかをしっかり聞き損なったようである。

 

『心理学』では『コーピング理論』というものがあり、『人間は困難なときにそれを乗り越える働きをする特性を持っている』という。困難さに直面すると生きる力がわき起こってくるというのである。そういう点から考えると、孫達は、テレビを見るだけ見て、宿題を何とか片付けたり、ガミガミ叱る親に耐えることも、『生きる力』を育むいい機会なのかと思ってしまう。

 

でも基本は、やはり、親が子どもの生きる力を見守り、辛いときにしっかり支えていくことが大事なのであろう。健康な心から『生きる力』がわいてくるからである。

『子宝通信』第2号(2011年7月29日発行)掲載

わたしは、子どもを見て、その心の中を考えることが癖になってしまった。だから泣いている子を見ても『どんな言い分があるのかな』とか『どれだけ頑張るのかな』とか『気が変わるときはどんな時かな』などと考えてしまう。そして嫌なことが沢山あっても、『強く生き抜いて欲しい。』と思うようになってきた。

ウ 打ち込み子育て

年をとってきたと自覚している私は、なぜかこの頃、過去において頑張ってきた時のかけ声や、軍歌のような勇ましい歌を歌って頑張っていることがあるのです。この事は、生きる力を強めることになっているのではないかと思っています。

 

顧みると激しい生き方をしてきたものだと思っています。いつも気力を込めて突進していくことを求められていたのではないかと思うのです。それが剣道であったりバスケットであったり、時には軍事教練であったりしても、否応なしに従ってきました。

 

70歳を記念して小学校の学年会があった時に、皆が『いつも親からも先生からも追い回され気を張っていたから、こんなにみんなで遊ぶことが楽しかったんだよ』と言い、親も教師も『打ち込み』をしてくれたのだと頷いた事がありました。

 

今回言いたいことは、私たちに真剣勝負の『打ち込み』を大人が一致して教えていたということなのです。そして、これが友情を育てるだけでなく、その後の人生をどのくらい支えてくれたか計り知れないと言いたいのです。

 

私の子育て論は『受容』を主としていますが、同時に出来る限りの『打ち込み』の機会を持つことの重要性を主張しています。

 

自閉症児に試みた『打ち込み』は、一度手がけた課題への挑戦を励ましてしっかり出来るまで付き添って、相手の気持ちに共感しながらも一緒に『頑張ろう』とし、向かい合ってボールを何回も投げては拾うと言うことをするので、一見『なんだこれは。普通のだめな強制教育と同じではないか?』と思われるでしょうが、ここまで進む過程においての信頼関係の形成を抜きにして考えてはならないということを強調しています。

 

さて、世のご両親方には、子どもに厳しく『打ち込み』が出来るような信頼関係を作っているという自信のある方がどのくらいいるのでしょうか。

『子宝通信』第3号(2011年9月28日発行)掲載

年をとってきたと自覚している私は、なぜかこの頃、過去において頑張ってきた時のかけ声や、軍歌のような勇ましい歌を歌って頑張っていることがあるのです。この事は、生きる力を強めることになっているのではないかと思っています。顧みると激しい生き方をしてきたものだと思っています。

エ 演技も必要な子育て

子育てを常に真剣な人間関係だと思っている人が多いと思いますが、親がゆとりを持って、子どもに見える心の表現を演じることが多いと思います。『ママは本当に嬉しいよ』『パパは心配で夜も眠れないんだよ』などと、子どもの前で自分の心を表す演技ができていることが必要なことです。

 

子どもが外で何か失敗してきたときなど、逆に明るく励ます両親の反応も、実は演技によるものなのです。また、子どもが弱いものいじめや、危険なことをしたときには『もうこういうことをする子は、家に置けませんから外に出なさい』と言って外に追い出すまねをするなどという昔からの演技も、子どもの理解力がつくことを見届けての上で、家の外に連れ出すような仕草を行うことがよく行われていました。

 

このときの親は、子どもの反応を見ながらも、真剣に演じていたのです。親として我が子を人間として間違った道を歩まないように、精一杯厳しい親という役割を演じていたのでしょう。

 

今は限度を心得るようになり、あまりひどいことをしなくなりましたが、かえって本当に虐待、子殺しが多く出てきているということには、考えさせられてしまいます。それには親が子育てに心のゆとりや自信を無くしてしまったという理由が述べられていますが、心のゆとりとは演技出来る心の豊かさという人間性で、これが少なくなってきたと思うのです。

 

人間の心を分からせる演技力は、親にとって必要だと思うのです。このごろのように人間関係が薄れてきている時代の中で、家庭の親子関係にかかわる時間も余裕も少なくなってきたようです。しかしそれでも努めてクリスマスやお正月や家族の誕生会などと、色々と改まった顔で話し合うことも演技出来る良い機会なのです。こういうことはいいことです。家族の中でも色々な人間性が生まれてくるからです。少ない人間関係の中でより豊かな人間関係を演出していくことは、子育てにおいて重要と思うのです。

『子宝通信』第4号(2011年10月31日発行)掲載

子育てを常に真剣な人間関係だと思っている人が多いと思いますが、親がゆとりを持って、子どもに見える心の表現を演じることが多いと思います。『ママは本当に嬉しいよ』『パパは心配で夜も眠れないんだよ』などと、子どもの前で自分の心を表す演技ができていることが必要なことです。

オ 教えること

子育てに“教えること”は極めて大切なことです。しかし難しいことはその教え方です。多くは、『何度同じことを言わせるんだ。お前は本当にだめな奴だ』となるので注意しなければなりません。これは、子どもの自尊心を傷つけることになるからです。

 

大人が『自分は親から厳しいしつけを受けたので良くなった』と言いますが、叱られ続けて良くなった例はありません。親からもらう一番大切なことは信頼と愛情です。教えるということは、新しいことを子どもの言動にとり入れられる状況を作ることです。

 

言葉がわかるようになれば言葉で教えることができますが、基本は子どもに状況をわからせることと興味や関心を持たせることです。一部の子どもには艱難辛苦を与えることで成功することもあるでしょうが、大部分の子どもに対しては『教えを急いではいけません』。本人の発達状況をよく見て、少し頑張ればできるようにすることが良い教育です。

 

もちろん、新しい話題や課題を提供することは文化的な刺激を与えるために、おもちゃやゲーム、絵本などの教材を整えておくことが望まれます。といって、子どもに整理できないような数多くの教材は必要ありません。幼児期までは、子どもが興味のあることを取り入れて遊び方の工夫を求めること、また、子どもが自分で状況を見て考えるように求めることが良い教育なのです。

 

早くから英語やピアノなどを教えることは、それによって育つものもありますが、英才教育の成否は、周囲からの評価と、自分の才能に自信を持つことができるようになることが必要です。才能を育てるにはそれを見抜く眼力が必要なのです。

 

一番困ることは圧力をかけて皆を一斉に教育することです。早くから箸の持ち方を強要する人がいますが、箸の持ち方は3歳前後が適当と発達心理学によって確かめられています。子どもの発達していく状況をよく見ている人こそよく教えられるのです。気まぐれな教育は子どもにとって悪影響をもたらすことがよくわかってきていますので十分注意してください。

『子宝通信』第5号(2011年11月30日発行)掲載

子育てに“教えること”は極めて大切なことです。しかし難しいことはその教え方です。多くは、『何度同じことを言わせるんだ。お前は本当にだめな奴だ』となるので注意しなければなりません。これは、子どもの自尊心を傷つけることになるからです。大人が『自分は親から厳しいしつけを受けたので良くなった』と言いますが、叱られ続けて良くなった例はありません。

カ 神様のこと

神様のことを子育てにおいて話すことは難しいと考える人が多いのですがなぜでしょう。この地球上の多くの国、或いは民族の間でいろいろな神様が信じられているのですが、我が国では、信仰の自由で、神様などに無関心な状況が多くみられています。神様は人のこころに入り込む高い価値を知らせ、人間の生活において善しとされる方向に行動を進めさせると考えられているのです。

 

神様を信仰することが必要と考える人たちは、人間の欲望が望ましくない方向へ向かいうときに、神様がいれば、心の中の望ましくない行動を取り締まり、善い方向に向けてくれるからなのです。

 

もちろん、それは人々の心の中で自分自身が起こすことです。誰も神様を実際に見たことがないと思います。しかし実際に神様が起こした奇跡的な出来事は数多くあります。偶然といってしまえばそれまでですが、私たちの今の知識では説明がつかないことも起きています。それらを神様と結びつける人もいるわけです。もちろんこのことについても意見が分かれています。科学系の人たちは、必ず説明が付くはずだと主張します。

 

ここで問題にしたいことは、子どもに神様を教えることがよいかどうかと言うことですが、私はためらいなく、「神様を信じるということを教える方がよい」とする立場にいます。私の幼いころに裏の家が教会でした。幼児期にはそこに日曜ごとに通いました。しかしやがて、その教会が無くなりました。すると母から、お寺の日曜学校に行くことをすすめられ、それから中学校卒業頃までお寺に通いました。私が今でも一番難しい援助を求める自閉症の人たちや幼い子どものことを案じるという事も、神様、仏様の教えからかと思っています。

 

ただ、神様や仏様だけを頼ることでは依存心が強まり、自分で努力しなくなるという意見もあります。それに対して、私は「困った時の神頼み」を教えることでよいと思います。自分は神様が守ってくれると信じ、勇気を奮い立たせることができるからです。

『子宝通信』第6号(2012年1月30日発行)掲載

神様のことを子育てにおいて話すことは難しいと考える人が多いのですがなぜでしょう。この地球上の多くの国、或いは民族の間でいろいろな神様が信じられているのですが、我が国では、信仰の自由で、神様などに無関心な状況が多くみられています。